黒田氏の出身地、すなわち苗字の地については諸説あるが、通説とされているのは近江国伊香郡黒田村(滋賀県長浜市木之本町黒田)である。
系図によれば、近江源氏佐々木氏で、北近江守護京極氏の分かれとなっている。
その後、備前国(びぜんのくに)の福岡を経て、官兵衛の祖父にあたる重隆のとき、播磨国の姫路に移り、玲珠膏とよばれる目薬販売で財をなし、父職隆(もとたか)は御着城主小寺政職(まさもと)の家老となり、姫路城主となっていた。
そのころは主君から小寺姓を与えられ、小寺職隆と名乗っている。
天文15年(1546)11月29日、職隆の嫡男として生まれたのが官兵衛である。
『黒田家譜』には、その日、雲が姫路城を覆ったという英雄誕生奇瑞譚を載せている。
永禄4年(1561)、官兵衛が16歳のとき、小寺政職の近習となり、翌年、初陣を果たした。
ただ、その初陣の相手は名前が伝わっておらず、近隣の土豪だったといわれている。
そのころ元服し、幼名の万吉から仮名(けみょう)を官兵衛、諱(いみな/名乗り)を孝高(よしたか)と称した。
22歳になった永禄10年(1567)、同じ小寺政職の重臣で志し方城(兵庫県加古川市志方町)の城主だった櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘光(幸円)と結婚している。
光はこのとき15歳であった。
結婚と前後して官兵衛は父職隆から家督を譲られ、小寺氏の家老の座と姫路城主としての地位も受けついでいる。なお、翌年、長男の松寿(しょうじゅ/のちの長政)が誕生している。
このように家督もつぎ、跡つぎ誕生と家庭的には恵まれた状態にあったが、ちょうどそのころ、東から織田信長の勢力が、西から毛利輝元の勢力がのびてきて、播磨はその両勢力の接点に位置し、御着城主小寺政職はどちらにつくかの判断を迫られていたのである。
家中の多くが毛利方への帰属を主張する中、官兵
ニューバランス レディース衛は織田方につくべきことを主張し、天正3年(1575)6月、御着城内で開かれた評定で、官兵衛の主張通り、織田方につくことが決定し、官兵衛が使者となって岐阜城の織田信長に謁見をしている。
そのとき、信長から愛刀「圧切(へしきり)」を与えられた。
この一連の過程で仲介役になったのが羽柴秀吉で、こののち、秀吉が同5年(1577)からいわゆる「中国方面軍司令官」として播磨入りすることになり、官兵衛とのかかわりはさらに密なものとなった。
秀吉は官兵衛に、「弟秀長と同様、兄弟のように思う」と伝え、官兵衛も自分の居城だった姫路城の本丸を秀吉に譲り、自らは二の丸に退き、二人三脚で播磨平定に邁進するのである。
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