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蒼茫夢

草吉の日毎の目覚めは衰亡の中へ滑りこむやうに展らかれてくるので、殆んど愉しいものではなかつた。それに目覚めた数分のあひだ、奇妙に不吉なことばかり頭に浮んでくるのであつた。ひとつには理性の失はれた時間のせゐであつたらうか。たとへば肉体を腐せてゆく悪疾の気色の悪い映像であつた。病魔は肉体を黒色にむしくひ、汚水のたまつた脳漿の中を蛆虫のやうに蠢めきまはつてゆくのである。目覚めにそれを瞶みつめてゐる数分のあひだ、然し草吉の心に湧き起るものは不快でもなければ恐怖でもなかつた。全てがひとえに静寂であつた。それを包む全ての心が無のやうであつた。生あるものは不吉な映像それのみであり、それは遥かな虚無の中に生れ出で、虚無を観客にちらめきうつり、さうして冬空の星の如くにそれ自らも凍りついてゐるのであつた。全てが凍るといふ冷静な感じであり、草吉の苦痛も悲しみも、在るといへばそれは確かに凍りついて在るのであつた。

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町の展望

町から、何処に居ても山が見える。その山には三月の雪があった。――山の下の小さい町々の通りは、雪溶けの上へ五色の千代紙を剪りこまざいて散らしたようであった。製糸工場が休みで、数百の若い工女がその日は寄宿舎から町へぶちまけられた。娘、娘、娘、素朴でつよい百日草のような頬の娘達が、三人ずつ、五人ずつ到るところに動いて居る。共同温泉が坂のつき当りにパノラマ館のようなペンキの色で立って居た。入口のところで、久しぶりに悠ゆっくり湯で遊んで来た一人の小娘が、両膝の間でちょっと風呂敷包を挾んだ姿で余念なく洗髪に櫛を通して居た。髪はまだ濡れて重い。通りよい櫛の歯とあたたかそうな湯上りの耳朶を早い春の風が掠める。……空気全体、若い、自由を愉しむ足並みで響いて居るようであった。今日は書き入れ日だ! プーウ、プカプカ、ドン、プーウ。活動写真館の音楽隊は、太鼓、クラリネットを物干しまで持ち出し、下をぞろぞろ通る娘たちを瞰下しつつ、何進行曲か、神様ばかり御承知の曲を晴れた空まで吹きあげた。

街角

彼女はやゝともすると、こんなことを叫んで手あたり次第にあたりの物品を投げ散らかせた。――彼女が、こんな叫び声をあげると服部君は有無なく沈黙してしまつた。いつも彼女は、髪は蓬々としてゐて、顔色は蒼黄色く、そして顔だちだつて頤が尖つて、眼も鼻も寧ろ小憎らしい程殺風景で見るからに貧相だつた。こんな貧弱な婦人に、どうしてそんなに立派な人達とかゞ甘言を寄せたものか? と、しば/\森野は不思議に感じたが、亭主の服部君がまた彼女の言をそのまゝ信じてゐるらしく、

「うちの女房は、去年まで銀座の或る有名なカフェの女給でしてね――」
 などゝやゝともすると森野に向つて、さも/\得意さうにやにさがつてゐた。そして彼女が、そのころどんなに花やかな人気者であつたかといふことを、あれこれと仔細な引例を挙げて吹聴するのが服部君の癖だつたが、森野はその言を信じないわけでもないのだが、あの貧弱な婦人が「どうして、そんなに――?」と首を傾げずには居られなかつた。

貧しき人々の群

 三坪ほどの土間には、家中の雑具が散らかって、梁の上の暑そうな鳥屋(とや)では、産褥(さんじょく)にいる牝鶏のククククククと喉を鳴らしているのが聞える。

 壁際に下っている鶏用の丸木枝の階子(はしご)の、糞や抜け毛の白く黄色く付いた段々には、痩せた雄鶏がちょいと止まって、天井の牝鶏の番をしている。
 すべてのものが、むさ苦しく、臭く貧しいうちに、三人の男の子が炉辺に集って、自分等の食物が煮えるのを、今か今かと、待ちくたびれている。
 或る者は、頭の下に敷いた一方の手を延して、燃えかけの枝で、とろくなった火を掻きまわして、溜息を吐く。或る者は、さも待遠そうに細い足をバタバタ動かしながら、まだ湯気さえも上らない鍋の中と、兄弟共の顔を、盗み視ている。けれども誰一人口をきく者は無く、皆この上ない熱心さで、粗野な瞳を輝かせながらただ、目前に煮えようとしている薯(いも)のことばっかりを、考えているのである。

魔性の女

 会社を退出した時には桃子にも連れがあったので、本庄とは別々の電車に乗ったが、S駅を降りると、彼はもう先に着いて待っていた。

 二人は腕を組んで夕闇の迫った街を二三町も歩くと、焼け残った屋敷街の大きな一つの門の前に立ち止った。
 桃子は眼を丸るくして、門冠りの松の枝を見上げ、
「あんた、このおやしき?」
「うん。素晴らしいだろう? 会社への往きかえりに毎日前を通っていてね、いい家だなあと想っていたんだ。今朝、出がけに寄って、部屋を見せてもらった。離室の茶席、とても素的だぜ。没落した華族さんの内職にやっている御旅館兼お休息所さ。ここなら会社の人なんかに絶対知れっこないからね」
「だって、私――」
 桃子は尻り込みして、
「あなたのお宅といくらも離れていないんでしょう? 

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