誰でもその口実をはっきり知っていた。――それは五月十六日の朝からなのだ。その前の日は、犬養総理大臣が白昼公然と官邸で射殺された。でかでかと新聞に書かれたこの大事件によって、少しは景気の盛りかえす世の中が来るかも知れないと漠然と思い、そのことについて大いに談じ合う予算つもりで工場に駈けつけたのだが、職工達は「おっとどっこい」――と許り門のところで堰き止められた。見るとひどく栄養のいい憲兵が長いサーベルをガチャガチャいわせて門衛所からとび出して来た。守衛が、嗄れ声で何か叫んだ。すると憲兵は怒鳴りつける号令声で「一列になれッ」とわめき、忽ち職工達を列べてしまった。
身体検査がはじまった。帽子の裏をひっぺがしたりした揚句、とうとう弁当箱の蓋を取れ――と来た。お菜の何にもはいっていない弁当がいくつもあった。流石の憲兵もしまいには人間並の眼色をただよわして云ったものだ。
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