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足跡

 冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残つて居り、村端むらはづれの溝に芹せりの葉一片ひとつ青あをんではゐないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消ゆきげの路の泥濘ぬかるみの処々乾きかゝつた上を、春めいた風が薄ら温かく吹いてゐた。それは明治四十年四月一日のことであつた。

 新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健ちはやたけしは、平生より少し早目に出勤した。白墨チヨオクの粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリ/\した三分刈の頭に帽子も冠らず――渠かれは帽子も有もつてゐなかつた。――亭乎すらりとした体を真直まつすぐにして玄関から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方かなたこなたから駆けて来て、敬うやうやしく渠を迎へる。中には態々わざわざ渠に叩頭おじぎをする許ばつかりに、其処に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其数が多かつた。平生へいぜいの三倍も四倍も……遅刻勝がちな成績できの悪い児の顔さへ其中に交つてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦よろこびを想うた。そして、何がなく心が曇つた。
 渠はその朝解職願を懐にしてゐた。

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