外國の人もまた、マリヤ樣、エス樣が、たいへんありがたいおかたであるといふ事は、教會の雰圍氣に依つて知らされ、小さい時からお祈りをする習慣だけは得てゐながらも、かならずしも聖書にあらはれたキリストの悲願を知つてはゐないのだ。J・M・マリイといふ人は、ヨーロツパの一流の思想家の由であるが、その「キリスト傳」には、こと新しい發見も無い。聖書を一度、情熱を以て精讀した人なら、誰でも知つてゐる筈のものを、ことごとしく取扱つてゐるだけであつた。この程度の「キリスト傳」が、外國の知識人たちに尊敬を以て讀まれてゐるんなら、一般の聖書知識の水準も、たかが知れてゐると思つた。たいした事はないんだ。むかし日本の人に、キリストの精神を教へてくれたのは、歐米の人たちであるが、今では、別段彼等から教へてもらふ必要も無い。「神學」としての歴史的地理的な研究は、まだまだ日本は、外國に及ばないやうであるが、キリスト精神への理解は、素早いのである。
キリスト教の問題に限らず、このごろ日本人は、だんだん意氣込んで來て、外國人の思想を、たいした事はないやうだと、ひそひそ囁き交すやうになつたのは、たいへんな進歩である。日本は、いまに世界文化の中心になるかも知れぬ。冗談を言つてゐるのではない。
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