[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
唐とうの貞観じょうがんのころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。閭丘胤りょきゅういんという官吏がいたそうである。もっともそんな人はいなかったらしいと言う人もある。なぜかと言うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。主簿といえば、刺史ししとか太守とかいうと同じ官である。支那全国が道に分れ、道が州または郡に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。州には刺史といい、郡には太守という。一体日本で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。閭がはたして台州の主簿であったとすると日本の府県知事くらいの官吏である。そうしてみると、唐書の列伝に出ているはずだというのである。しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておくのである。
さて閭が台州に着任してから三日目になった。長安で北支那の土埃つちほこりをかぶって、濁った水を飲んでいた男が台州に来て中央支那の肥えた土を踏み、澄んだ水を飲むことになったので、上機嫌である。それにこの三日の間に、多人数の下役が来て謁見えっけんをする。受持ち受持ちの事務を形式的に報告する。そのあわただしい中に、地方長官の威勢の大きいことを味わって、意気揚々としているのである。
僕、先月末出京しました。東京は我があこがれの都。雪のふる夜も青猫の屋根を這ふ大都会。いまは工場と工場との露地の間、職工の群がつてゐる煤煙の街に住んでゐます。黒い煤煙と煉瓦の家の並んでゐる或る貧乏なまづしい長屋に、僕等親子四人が悲しい生活をしてゐます。どうにかしてパンの食へる間だけは、乞食をしても東京を離れたくない。いつまでもこのプロレタリヤの裏町に住んでゐたい。鴉のやうに。
蒲原有明は僕の崇拝する唯一の詩人。貴君がそれに着眼されたるは流石です。実をいへば詩集「月に吠える」出版の時、序文を是非蒲原有明先生にたのみたく再三書簡を以て懇願したるも返事を下さらないので、遺憾ながら意を果さなかつたやうなわけです。かく僕が蒲原氏の序を切望したるは、僕の詩を以て蒲原氏の新しき正派を自任したからです。有明詩集中、独絃哀歌あたりの作品は実に名篇であつて、今よんでも涙が出るほど好い。何と言ふか、情緒が濃厚でしかも神秘的であつて、あたかもポオの恋愛抒情詩の如く、それで東洋風の香気が強い。「恋」の神秘にして甘き情緒は、僕、有明によつて始めて知れり。この恋ラブの如く神秘的にして、本質的に音楽の情緒に近いものはない。僕の「月に吠える」中なる二三の作品が如き、正にこの神韻を摸してこれを俗化せるものなり。
静寂といおうか、閑雅といおうか、釣りの醍醐味をしみじみと堪能するには、寒鮒釣りを措おいて他に釣趣を求め得られないであろう。
冬の陽ひざしが、鈍い光を流れにともない、ゆるい川面へ斜めに落として、やがて暮れていく、水際の枯れ葦の出鼻に小舟をとどめて寒鮒を待つ風景は、眼に描いただけで心に通ずるものがある。舟板に二、三枚重ねて敷いた座蒲團の上に胡座あぐらして傍らの七輪に沸たぎる鉄瓶の松籟しょうらいを聞くともなしに耳にしながら、艫ろ(とも・へさき)にならんだ竿先に見入る雅境は昔から江戸ッ子が愛好してきた。
鮒は、秋の半ば過ぎると、水田や細流から大きな流れへ落ちていく途中、充分に餌を採って、やがて暮れ近くなると静かな流れの深いところへ巣籠すごもってしまう。これを狙って釣るのが寒鮒釣りである。
寒鮒釣りは、岡釣りでもやれるが、舟釣りの方が楽しみが深い。浮木うき釣りと脈釣りと二種あって、全く流れのないところでは浮木を用い、緩やかな流れのあるところでは浮木をつけないで穂先の当たりによって鮒が餌に絡まったのを知るのである。
「天真正伝神道流」の流祖、飯篠長威斎家直いいざきちょういさいいえなおが当時東国第一の兵法者とされているのに対して、富田勢源せいげんが西に対立して双ならび称されて居たものである。中条流より出た父九郎右衛門の跡を継ぎ名を五郎左衛門、入道してのちに勢源、自ら富田流の一派を樹たてて無双の名人とされて居た。越前の国宇阪の荘、一乗浄教村の住人である。
飯篠家直の門下からは、弘流ひろしりゅうの井鳥為信、一羽流いちうりゅうの諸岡一羽、本心刀流の妻方謙寿斎つまがたけんじゅさい、神道一心流の櫛淵宣根くしぶちのりね、有馬流の有馬頼信、新陰流の上泉伊勢守の如き剣豪が出て居るし、富田流から一放流の富田一放、長谷川流の長谷川宗喜、無海流の無一坊海園、鐘捲流の鐘捲自斎などの俊才が出たが中でも鐘捲自斎が傑すぐれていたらしく、門人に伊藤一刀斎景久が出て徳川中世の武道を風靡ふうびした一刀流の源を造っている。この間にあって佐々木小次郎も富田門に学んで、自ら師より許されて岩流の一派を開いたその俊才の一人であったが、「岩流」を開く事を許されたのが十六歳というからその天才的な練達、武蔵に討たれなかったら鐘捲自斎以上であったにちがいない。
勢源という人は小太刀の名人であった。眼を病んで入道になってからいよいよ小太刀を研究して好んで一尺三寸の得物を使った。
プロフィール
カテゴリー
最新記事
P R