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あっちこっちで帰り支度がはじまった。ビルディング内の生暖かい重い空気が急にしまりなくなって、セカセカかき立てられた。
ミサ子は紫っぽい事務服を着てタイプライタアをうっている。かわり番こにワイシャツにチョッキ姿の社員が手洗いに出たり入ったりした。大声で、
「ああ、ありゃダメさ!」
廊下の誰かと話しながら肩でドアを押して入って来る者もある。
ミサ子は、その中でわき目もふらずタイプライタアを打ちつづけた。もう一枚、短い手紙がある。それさえ打ちあげれば、一日の仕事はすむわけだ。
男の社員たちは、机の前にくいついている仲間に、
「おい、まだかい?」
と声をかけた。自分は洗って来た手を拭きながら肩越しにのぞき込んだりしている。
木理もくめ美うるはしき槻胴けやきどう、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳がんでふ作りの長火鉢に対ひて話し敵がたきもなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日いつ掃ひしか剃つたる痕の青と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとゞめて翠みどりのひ一トしほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、洗ひ髪をぐる/\と酷むごく丸まろめて引裂紙をあしらひに一本簪いつぽんざしでぐいと留めを刺した色気無の様はつくれど、憎いほど烏黒まつくろにて艶ある髪の毛の一ト綜ふさ二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかゝれる趣きは、年増嫌ひでも褒めずには置かれまじき風体ふうてい、我がものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢しれものが随分頼まれもせぬ詮議を蔭では為べきに、さりとは外見みえを捨てゝ堅義を自慢にした身の装つくり方、柄の選択えらみこそ野暮ならね高が二子ふたこの綿入れに繻子襟かけたを着て何所に紅くさいところもなく、引つ掛けたねんねこばかりは往時むかし何なりしやら疎あらい縞の糸織なれど、此とて幾度か水を潜つて来た奴なるべし。
先日こなひだ硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に河合寸翁かはひすんをうといふ男があつて、頼山陽と硯とが大好きなので聞えてゐた。
頼山陽を硯に比べたら、あの通りの慷慨家かうがいかだけに、ぷり/\憤おこり出すかも知れないが、実際の事を言ふと、河合寸翁は山陽よりもまだ硯の方が好きだつたらしい。珍しい硯を百面以上も集めて、百硯けん箪笥といつて凝つた箪笥に蔵しまひ込んで女房や鼠などは滅多に其処そこへ寄せ付けなかつた。
同じ藩に松平太夫たいふといふ幕府の御附家老があつて、これはまた「古松研」といふ紫石端渓の素晴しい名硯を持合せてゐた。何でもこの硯一つで河合家の百硯に対抗するといふ代物しろもので、山陽の賞ほめちぎつた箱書はこがきさへ添そはつてゐるので、硯好きの河合はいゝ機会をりがあつたら、何でも自分の方に捲まき上げたいものだと、始終神様に願掛ぐわんかけをしてゐたといふ事だ。
もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼まなこがかすむ。
顔を上げれば、向うまで深く湛えた湖水の面と青く研ぎ澄された空との間に、大きい銀杏の木が淋しく頼り無い郷愁を誘っている。知らない間に一日一日と黄色い葉が散ってゆく、そして今では最早なかば裸の姿も見せている。霜に痛んだ葉の数が次第に少くなることは、やがてこの湖畔の茶店を訪れる旅の客が少くなることであった。
冷ひややかな秋の日の午後、とりとめもなく彼女が斯ういう思いに耽っている時、一人の青年が来て水際に出した腰掛の上に休んだ。
茶と菓子とを運んだ婢おんなに昼食おひるのあと片付けを云いつけて、彼女はまた漠然たる思いの影を追った。遠くより来る哀悠が湖水の面にひたひたと漣さざなみを立てている。で側の小さい聖書をとり上げてみた。見るともなしにちらと眼をやると、青年はじっと湖水の面を見つめている。
あるまじめな女のひとが次のような話をした。「私は十三四からずっと印刷工場の女工をやったんですが、女工といっても職場で気持がちがいますよ。私たちは、拾うものを片端から自分の生活に関係なく読むもんだから文化的な水準は一等高いけれど、どうしても文学少女みたいになっちゃうんです。それが印刷で働いたものの一番の弱点だと思います。」
私はその話から、有名なフォード自動車工場の有様を思い起した。あすこは能率増進のために極度に分業化され、たとえば鋲をこしらえる部では何年経とうがそれだけやらせられるから、さてクビになると機械工といってもかたわで修繕工にさえなれない。これは恐しいことであると従業員は訴えているのである。
私たちは、自分の性格というものまで、今日の社会機構の不自然な分業と、その全計画に参加し得ない組織によって労力だけをしぼられているうちに、いつとなく細分され、一面化されている。
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